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太安萬侶墓(おおのやすまろぼ)〔奈良市此瀬町〕
 
太安萬侶墓

 太安萬侶は、和銅5年(712)に完成した日本最古の歴史書である『古事記』の撰録(せんろく)者として著名である。『続日本紀』には、太安萬侶の授位に関する内容や養老7年(723)7月に民部卿(民部省の長官)という役職で亡くなったことが記されている。
 太安萬侶の墓は、奈良県庁から直線距離で東南へ約7㎞離れた奈良市此瀬(このせ)町にあり、昭和54年(1979)1月に、丘陵の南斜面にある茶畑の改植作業中に偶然発見された。発見者の適切な通報と、速やかに発掘調査が行われたことで、奈良時代の墳墓としてはとても珍しく、墓の構造や墓誌の出土状況が明確にされた貴重な例となっている。
 調査時にはすでに封土は削られていたが、一辺180㎝四方ほどの墓壙(ぼこう)には木炭で覆われた木櫃(きびつ)が納めてあり、その中に火葬された骨と真珠4顆が納められていたようである。木櫃の樹種はコウヤマキで、大きさは長さ約65㎝、幅約38㎝、高さ約38㎝。木櫃の下には41文字が刻まれた墓誌(ぼし)が下向きに納置されていた。墓誌は純銅に近い銅板で、長さ29.1㎝、幅6.1㎝。厚さは平均で0.5㎜しかなく、打ち込まれた銘文は裏側で隆起している。同時代の人物で、しかも従四位下という位階も同じ小治田(おはりだ)安萬侶(やすまろ)の墓誌は、大きさは同じながら厚さは4㎜もある。飛鳥・奈良時代のその他の墓誌も3~5㎜の厚さがあって、太安萬侶墓誌は飛び抜けて薄いのが特徴である。銘文は次のように2行にわたって記されている。
  左京四條四坊従四位下勲五等太朝臣安萬侶以癸亥
  年七月六日卒之 養老七年十二月十五日乙巳
 ここには生前の住所、位階や勲位、太安萬侶の名前、亡くなった日付などが刻まれている。これによって、墳墓の埋葬者が太安萬侶であり、太安萬侶が平城京左京四条四坊に住んでいたことが初めて明らかとなった。
 2012年に実施された墓誌の三次元計測と熟覧によって、銘文の行間に籠字(かごじ)状の文字痕跡があることが確認された。文字痕跡は銘文と同じ内容で、一行目の「安」「萬」「侶」「以」「癸」、二行目の「十」「二」「月」「十」「五」「日」「乙」が、それぞれ銘文の左下に認められる。文字痕跡は銘文の字形や文字間隔が酷似していることから、銘文の下書きであった可能性がある。
 なお、太安萬侶墓誌は真珠4顆とともに国の重要文化財に指定されており、現在、奈良県立橿原考古学研究所附属博物館にて常設展示している。また、調査時にはぎ取られた墓壙内の木炭や土層は墓の模型に利用されており、同じく常設展示されている。

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